Andô Rikiti (安藤 利吉, あんどう りきち),日本陸軍軍人。第19个,也是最後一个臺灣總督。
出身[修改]
1884年 (明治17年) 4月3日出世佇Miyagi縣Sendai市 (宮城県仙台市)。最權階級是陸軍大將。伊是Miyagi縣第二張蓄後地一界、陸軍士官學校16其、陸軍大學26期出身。
經歷[修改]
1944年4月,擔任臺灣軍司令官的Andô Rikiti佇臺北糖業聯合會館邀請臺北重要的日本人聚會。其中有幾若的國策會社負責人,新聞業者,臺北地tāi教授。伊佇聚會中所發表的演講引起風波。伊講:
'今拄拄是驗收歷任總督治理成績單的時陣落。若準有得著民心,佇敵軍登陸致到全島戰場化个時,台灣同胞應該會和皇軍合作,佮敵軍登陸部隊拚死交戰藉著。真正的皇民化應該愛按呢才是著。萬一若是倒反.....以我個人的看法,也毋敢對臺灣同胞寄託絕對的信任......'
這个演講內容走設了後,引起總督府以給總督Hasegawa Kiyosi本人真大的不滿。 Hasegawa Kiyosi佇貝過月後就加己辭掉總督職務。由Andô Rikiti接任。
1944年12月30日, Andô Rikiti接任第19位台灣總督。當時戰士已經聯紲鬼若妮,物資真欠架,所以,管制真嚴格。 1945年3月實施強制精兵。
8月15日,日本天皇發表詔書宣佈投降。但是這篇照斯佇台灣因為不明原因萬一工,益就是佇8月16日才公佈。 Andô Rikiti壓詔書,牽涉包歌辜進府 (辜 振甫) 在內的1945台灣獨立事件。
死亡[修改]
1945年,日本投降, 10月25日, Andô Rikiti代表台灣總督府醫及知台日軍,佇臺北市公會堂 (現時的中山堂) 向臺灣省行政長官陳儀 (陳儀) 簽署降師,擔任 '台灣地區日本官兵善後聯絡部部長',主持移交事項,配合執行遣返日軍佮日本人。
1946年 (昭和21年) ,中國以戰犯罪名逮捕伊,送去中國接受軍法審判, 4月19日佇上海監獄用毒自殺。
年譜[修改]
- 1901年 (明治34年) 3月Miyagi縣第二張蓄校畢業。
- 1904年 (明治37年) 10月陸軍士官學校畢業。 (16旗)
11月步兵少尉,步兵第四聯隊副
- 1907年 (明治40年) 12月步兵中尉。
- 1913年 (代正2年) 11月步兵大尉。
- 1914年 (大正3年) 11goe̍h陸軍大學畢業。 (26旗)
- 1915年 (大正4年) 步兵第50聯隊中隊長
- 1916年 (大正5年) 2月陸軍技術審查部副 (軍事調查委員)
- 1919年 (大正8年) 1月 - 1921nî (大正10年) 9月自在英國。
- 1920年 (大正9年) 8月步兵少佐・荷平條約實施委員。 (自在歐洲 )
- 1923年 (大正12年) 4月餐謀本部元。
- 1924年 (代正13年) 7月兼六tāi教官。
8月步兵中佐。
- 1925年 (大正14年) 8月印度自在武官
- 1927年 (昭和2年) 4月餐謀本部元。
- 1928年 (昭和3年) 3月步兵事組 ,步兵第13聯隊長。
- 1930年 (昭和5年) 3月第5師團餐謀長。
- 1931年 (昭和6年) 3月陸軍省軍務局兵務課長。
- 1932年 (昭和7年) 5月英國大使館副武官。
8月陸軍少將
12月步兵第1旅團長。
- 1935年 (昭和10年) 8月陸軍Toiama (戸山) 學校校長。
- 1936年 (昭和11年) 4月第5獨立守備隊司令官・陸軍中將。
- 1937年 (昭和12年) 8月教育總監部本部長
- 1938年 (昭和13年) 2月教育總監
5月第5師團長。
11月第21軍司令官
- 1940年 (昭和15年) 2月南支那方面軍司令
10月餐謀本部副。
12月待命。
- 1941年 (昭和16年) 1月預備役。
11月招執・臺灣軍司令官
9月第10方面軍司令官
12月兼臺灣總督